「オフチョベット」ってなんだ?:オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする呪文を紐解く

ご無沙汰しています、ぽわせみです。今回の議題は「オフチョベット」って何だ?です。

 

みなさんはオフチョベット、という言葉をご存知でしょうか。インターネットに慣れ親しんでいる人やツイッタラー(死語)の方は馴染みがあるかもしれません。

 

オフチョベットは「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする」という一文で用いられます。この一節は、テレビ番組『相席食堂』で使用された表現です。エチオピアの主食であるインジェラの調理方法を説明する文として用いられています。

Twitterをはじめとするインターネット上で話題となり、「(専門用語や現地語などの、しばしば"意味不明な")ある用語を別のまたよくわからない用語で説明することで、意味がまったく伝わらない」意のネットスラングとして用いられています。長いし、やはり日本語としては意味が分からないので、単に「オフチョベット」としても言及されています。

日本語(外来語)として使う分には、「オフチョベット=専門用語で説明されても訳わかめ」でいいのですが、私のような人間からすると結局どういう意味なんだと気になるものです。これまでネット上で推測されている中では、ほかの単語はほぼあたりが付いているのですが、「オフチョベット」だけは該当する語彙が見つけられていませんでした。そこで本記事では「それぞれの単語を原語表記で示すこと」をゴールとします。言語学は専門ではないので、何かつっこみがあれば歓迎します。

※ネットの海で拾った番組の切り抜き画像を転載します。悪しからず。

 

番組内の紹介

ご存知『相席食堂』は、朝日放送で放送されているお笑いコンビである千鳥の2人がMCを務める番組で、2019年9月17日放送回では、エチオピア料理を現地で調査するパートがありました。

 

「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする様子」はここでテロップとして表示され、それが切り抜かれて話題となりました。登場するのは、エチオピアで主食として供されているエチオピア料理、「インジェラ(アムハラ語: እንጀራ)」のレシピを紹介する場面です。番組では、「現地の番組制作会社から届いた日本語訳をそのまま掲載したことにより、このような表現になった」と説明されています。

つまり、この文におけるよくわからない「カタカナ語」はエチオピアの事実上の公用語であるアムハラ語であると考えられます。アムハラ語は、ゲエズ文字を使って表記されます。

 

文の意味を解読してみよう

番組での解説

それで、結局文の意味は何だったのかというと、ご丁寧に番組内で解説されています。

 

テフ:イネ科の植物

 

オフチョベット:粉末状にすること

マブガット*1:水と混ぜた状態

リット:テフにお湯を混ぜた状態

じゃあこれで解決……

と言いたいところですが、片仮名表記なので対応する単語が分かりません。もともとWikipediaの記事を作成することを目標としていて、番組の切り抜き画像では出典になりませんので、記事にするには検証し、現地語を表記する必要がありました*2。動画の音声を聞いてみても対応する文は分からなさそうです。

 

このうち、「テフ」は簡単に元を当たることができました。「テフ」と検索するだけでアムハラ語で ጤፍ ṭef と呼ばれているイネ科スズメガヤ属の植物 Eragrostis tef であることが分かります。

 

ほかの3単語は外来語として用いられるような語ではないことから、アムハラ語の何かしらかを引く必要があります。そこで、ネット注文できそうだった書籍2冊を購入しました。

が、、、はっきり言ってあまり役に立ちませんでした。左の書籍には、そもそもゲエズ文字が書かれていませんでした。ラテン文字転写された字母から引こうと思ったのですが、片仮名に該当する音の単語はありませんでした。というか、そもそも屈折や格変化されていてもわからないじゃんと。右の書籍はアルファベット転写の "五十音図" が載っており、それを参考に片仮名をそのまま置き換えて検索しようとしたのですが、番組中で片仮名に直されている方法がガバガバそうなのと、日本語における音は複数の字母に対応するため太刀打ちできず…*3

インターネット諸兄による解読

これらの元の単語について気になる人は、やはりほかにもいたようで、まず以下を見つけました。

case 1 

ソリング J 氏 (2022年3月2日) による、「小説家になろう」で書かれた一節です。 

 オフチョベット(おそらく、粉を意味するፈጨ(フチ)という単語に接尾辞・接頭辞がくっついたものだろう)はアムハラ語で「粉にする」という意味で、「テフ」は穀物の名前。「マブガッド」は「水に溶く」ことを意味し、「リット」はこの手段を踏んでできるインジェラの元のことである。それにアブシィトすなわち酵母のようなものを加えればインジェラができるということだ。

「オフチョベット」はドンピシャな単語まではたどり着けなかった様子。「マブガッド」と「リット」もゲエズ文字になっておらず、番組の受け売りでしょう。

 

case 2

そして、調べ始めたころにはまだ公開されていなかったのですが、その後良い線まで来ているサイトを見つけました。

qwerty1234 氏 (2022年10月18日) の「井戸端」で公開されていた記事です。

マブガッドとリットについては、具体的な単語まで辿り着いていました。

✅マブガッド:[* ማቡካት](mabukatə) 発酵?
  思考過程
   これも動詞か形容詞のはず
   発音からするとማቡካትあたりがあやしい。テキスト3には載ってない。
    ማቡካትでYouTubeを検索してみて一番最初に出た動画
     የጤፍ እንጀራ/አብሲት የለ [ማቡካት] የለ 👌ኑሮ በዘዴ Ethiopian flat bread made of Teff
      テフのインジェラ/???? ? 発酵 ?
     https://www.youtube.com/watch?v=Jjk5QTXfdN8
   ማቡካትを[英語-アムハラ語辞典]にかけたところ、ferment(発酵)であるらしい

番組中で解説されていた「水と混ぜた状態」とは異なりますが、妥当そうです。

 ✅リット:[* ሊጡ] (lit)。パンのねり粉、[ドウ] (参考テキスト3、p.4)
  ドウってなんだろう?[cFQ2f7LRuLYP.icon]

dough「生地」ですね。京大入試で有名な単語です。これはまず間違いないでしょう。

そして最後に…

 ❎オフチョベット:「粉末状にする」?
  テキストの総語彙にな~んも見えない(管見に入らない)。下のレシピの発音でも辿れない。困った
  動詞か形容詞
  降参して上のTogetter([オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする様子#634e90cae600350000c00deb])を見たところ、「粉末状にする」という意味合いであるらしい
   テキスト3のp.91にፍጭ(fäč̣čạ̈)「潰す、挽く」というのがあった
   https://dictionary.abyssinica.com/ፍጭ ፍጭ | Define ፍጭ in English at Abyssinicaでは英のPowderに当たるらしい
    発音を聞くと「サチ」みたいに聞こえる
   オフチョベットの「フチ」の部分か?
    そうなると「オ」と「ョベット」ってなんだろう?動詞活用?(未解決問題)

やはり「オフチョベット」は何らかの語形変化を受けているらしく、難しいようです。

 

case 3

私自身は参照していなかったのですが、これらより前に解釈を試みようと試みた例がありました。

あずれど [@azured213] 氏(2019年9月18日)のツイート*4 でした。

wikipediagoogle翻訳に入力 1行目は例示っぽいので2行目を見てみる。
最後の「ማቡካት 」がmabukati
という発音であることがわかる。すなわちこれが「オフチョベットしたテフをマブガッドする」の「マブカッド」に該当してそう。

(中略)

「オフチョベット」に該当する単語は、wikipediaでは見つからなかった。これにて降参。

マブガッドはやはり ማቡካት としており、オフチョベットに関しては諦めています。

 

自分で解読するしかないか……

そこで、ここからはこれまで先人たちが明かしてくれた情報をもとに、自力で調べてみることにします。

まず、アムハラ語(Amharic)を調べるのに有用そうな編英辞典(アム英辞典、しょうもない造語です)を探してみます。良さげな辞書を、しかもインターネット上でアーカイブされているものを見つけることができました。時代に感謝!

これを Wikipedia 「アムハラ語」でも参照できる文字の対応表も使って引いていきます。順番が慣れなさすぎる。何順なんだ、むずい……と思うものの外国人からしたら日本語の五十音もそうなんだろうなという。

 

アムハラ語のアルファベットは、子音+母音の形をとり、子音順に並んでいます。

例えば、最初の字母h は 以下のように7つの母音に合わせて形を変えます。これらの母音のうち、英語の5つの母音字にない ä および ə は中舌 (central) の母音で、それぞれ ä は /e/ と /o/ の中間である /ə/、ə は /i/ と /u/ の中間である /ɨ/(もしくは無音の場合もある)の音価を表すようです。

  ä u i a ē ə o
h

 

まず、テフ ጤፍ ṭef を参照すると、次のようにあります(vol. 2, p. 2193)。

ጤፍ ṭef a very fine grain about the size of grass seed used in making ənǧära-bread which is the grain of choice of highland Ethiopia (Eragrostis tef or Eragrostis abyssinica)

問題ありませんね。ənǧäraインジェラ です。

 

そして、リットはやはり「インジェラを作るための)発酵させた衣、生地」を意味する ሊጥ liṭ であることが確認できました(vol. 1, p. 121)。

ሊጥ liṭ  fermented batter (for making ənǧära-bread), dough, fig, weak [feeble]

次に、「マブガッド」ですが*5、ማቡ…と探していくと、MBGD と連なる単語はなさそうです。最も近そうなのは以下の語でしょうか (vol1, p. 241)。

ማቡኪያ mabʷkiya container for fermenting batter (see ቦካ)

ማብጃ mabäǧǧa means for making s.th. (see በጀ)

※ቦካ boka, በጀ bäǧä, s.th: something

ǧ音価は /dʒ/ なのでガではなくジャですね。これらの語は、(see ...) の部分に書かれた語の派生語のようです。辞書で引く場合は派生元の見出し語を探す必要がありそうです。

 

ここで、アムハラ語の動詞の変化について、以下のような対応関係があります*6

語幹 አየ ayye  - 動名詞 ማየት mayet "to see"

語幹 ገባ geba - 動名詞 መግባት megbat “to enter/to get in” 

つまり、መ...ት (m...t)動名詞であり、辞書には語幹の形で見出し語になっている可能性が高いということが分かります。

 

これをもとに語幹を予測し、辞書を引くと、ባገ (bag...) や ኣቡገ (abug...) が考えられるものの、該当しそうな単語は存在しませんでした。後半の音は違いますが、やはり ማቡካት mabukat が近しいだろうということで、調べてみると以下を見つけました(Vol. 1, p. 923)。

ቦካ bokka to ferment (batter); to become rancid (butter); to become thick and sticky (mud used to plaster walls of a house); to be ready for use (traditional ink)

衣を醱酵させる(動詞)ですね。また、これの名詞形として

ቡኮ buko fermented batter for making ənǧära-bread, dough

ቡኪ buki batter (fermented)

インジェラを作るために醱酵させた衣、生地とあるので、元の動詞はやはりインジェラを作る際に用いられるようです。また、派生語として(Vol. 1, p. 924)

መቡኪያ mäbʷkiya means for fermenting, e.g. leaven, yeast

ማቡኪያ mabʷkiya means for fermenting batter, container in which this is done

これらが記載されていました。Kane (1990) で ማቡካት 自体は見つけられませんでしたが、Glosbe の辞書に ማቡካት は ferment (to) として記載されており、ቦካ の動名詞で問題ないだろうと推測されます*7。「マブガッド」は ማቡካት mabukat 「醱酵させること」でしょう。

 

最後に、先人たちにより「オフチョベット」は ፈጨ fäč̣č̣ä に由来するのではないかという推測がありました。そこで、ፈጨ の項を見てみます(Vol. 2, p. 2346)。

ፈጨ fäč̣č̣ä to grind grain, reduce to flour (in a mill or on a grinding slab), make flour or mill flour, to mash (potatoes); to crush or pulverize rock(s), to powder sudar; to whistle between the teeth or by pursing the lips (minstrel, singer)

やはり意味的にこの派生語と考えて間違いないでしょう。ä は [ə] の音価であることに注意です。ファチャという感じですね*8

この派生語として、次の単語を見つけました。

ወፉጮ wäfč̣o grinding slab (the hand-held stone is the mäǧ), flour mill, mill

ワフチョ、なんだか惜しい感じ。grinding slab は 石臼のようなものでしょうか。更にその派生語に、次のものがありました(Vol. 2, p. 2347)。

የወፉጮ፡ቤት mill

これはラテン文字転写されていませんでしたが、機械的に置き換えると yä-wäfč̣o bet となります。ヤワフチョベートといったところでしょうか。このうち ቤት bet は「家」「部屋」などの意で、様々な複合語を作るようです(Vol. 1, p. 911)。そのため、この mill は臼というよりは「製粉所」「製粉室」でしょうか。また、ቤት の派生語として、次の語が掲載されていました(Vol. 1, p. 914)。

ወፍጮ፡ቤት mill (us. flour mill)

※us.: usually、፡ は単語を区切る記号

wäfč̣o bet おお、だいぶ近い音ですね。そのまま書くとワフチョベートですが、の音はエとオの中間的な音なので、これが「オフチョベット」なのではないでしょうか。

 

ただし、ቤት は場所を指し、ወፍጮ፡ቤት は製粉室(名詞)を意味するため、日本語に組み込む際に「オフチョベットした」は違和感のある表現ですが、これ以上可能性のある語が見つけられていないことから、ここでは「オフチョベット」は ወፍጮ፡ቤት wäfč̣o bet 「製粉所」として結論付けておきます。

 

まとめ

「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする」は、「ወፍጮ፡ቤት した ጤፍ を ማቡካት して ሊጥ にする」でした。より正確に言うと「ファチャしたテフをボッカしてリットにする」となるはずなのですが、これだとおそらくバズらなかったので、「オフチョベットした(略)」という説明を考え出した番組制作の方はさすがだと思います。

 

ついでに

「オフチョベット(略)」の完全な文は次のものとされます。

テフをオフチョベットしたものをマブガッドしてリットを作る。そして発酵させたリットにアブシィトを加えて混ぜ、ミタッドで焼くとインジェラになる。

せっかくなのでこれらについても原語表記しようと思います。名詞っぽいので簡単そうですね。

 

まず「アブシィト」は、ネット上では酵母とされています。Vol. 2, p. 1196 にありました。

ኣብሲት absit starter (for batter): two types, the first consists of water, a small amount of yeast and flour which are mixed and left for 2–3 days. Some of this is taken, boiled and mixed with the batter. The second is made by putting a quantity of flour in a wadiyat-basin and mixing it with boiling water. This is the put in a pot in which there is old batter and left for a day or so after which it is used for making ənǧära-bread

アブスィト。醱酵種を表すようです。2種類が区別されて詳しく書かれてますね。

 

「ミタッド」はネット上では土鍋とされています。Vol. 1, p. 360 にありました。

ምጣድ məṭad griddle (us. a disc of metal or pottery on which ənǧära-bread is baked) (see  ጣደ)

ミタッド、「(ふつうインジェラを焼くための金属製か陶器製の)鉄板」。

 

最後は、地味にこれまで調べていなかった「インジェラ」です。Vol. 2, p. 1243 にありました。

እንጀራ ənǧära a large , moist, slightly sour pancake-like bread of ṭef flour which is baked on a covered griddle (unlike a pancake, it is too large to be turned over)

パンケーキみたいだけどひっくりかえせないぐらいデカいっていい説明ですね。

 

というわけで、ጤፍ を ወፍጮ ቤት したものを ማቡካት して ሊጥ を作る。そして発酵させた ሊጥ に ኣብሲት を加えて混ぜ、ምጣድ で焼くと እንጀራ になるので、皆さんもぜひ試してみてください!

 

資料

እንጀራ የመጋገሪ ሂደት

公式Twitterインジェラのレシピの手書きメモを公開していました*9

タイトルは「እንጀራ የመጋገሪ ሂደት(インジェラの作り方)」です。

ちなみに、ChatGPTを使って訳してみようと思って試したのですが、資料が少ない分やはり勝手に推測して出鱈目なことを言ってきます。はっきり言って役に立ちませんでした。

 

「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする」の定義

  • 「あまりにも現地語丸出しの説明で意味の分からない画像の例」(もくしゅん, 2022)
  • よくわからないものの比喩「専門用語を専門用語で説明されることで、何も入ってこない」(ソリング J, 2022)
  • 「知らない専門用語や単語がたくさん入った文章の一例」(qwerty1234, 2022)

類似表現

  • パルスのファルシのルシがコクーンでパージ
  • こんばんは。エルマ族のケムチャといいます。エルマ族の中でも優秀な、ハスーイの末裔ですよ。
  • ガタスタパナから始まりティカしてジャマラをもらう祭り

参照したウェブサイト等

(ありがとうございました)

*1:最初の切り抜きでは「マブガッド」でしたが、解説部分では「マブガット」とあり、表記揺れがあります

*2:そもそもこの話の発端は、Wikipedia には「珍項目」という概念が存在し、いつかネタを仕込んで書いてみたいなと思ったからでした。ミームが流行った2022年頃に思いついたのですが、なかなか検証が進まず…。有効な二次資料が集まるとはさらさら思っていなかったのですが、まだインターネットミームとしても人口への膾炙度合が低く、使えそうな出典が不足していて困っています。(利用者ページのsandboxにも残してるけど)ひとまずここでまとめてみることにしたのでした。

*3:たとえば、「オ」は ኦ ʼo /ʔo/、ዖ ʽo /ʔo/、ዎ wo /wo/ といった可能性のほか、አ ʼä /ʔə/、ዐ ʽä /ʔə/、ወ  /wə/ といった近しい音を無理やり当てた可能性もあり、知識がない状態ではどうしようもありません。

*4:https://x.com/azured213/status/1174315996724658176

*5:前述したように、成句中に登場するのは「マブガッド」なのですが、番組の解説では「マブガット」とありました。

*6:Introduction to Verb Conjugation – Learning Amharic

*7:https://glosbe.com/am/en/%E1%88%9B%E1%89%A1%E1%8A%AB%E1%89%B5%E1%8D%A3%20%E1%88%98%E1%89%A1%E1%8A%AB%E1%89%B5

*8:ፈጨ | Define ፈጨ in English at Abyssinica

*9:https://x.com/aiseki_syokudo/status/1174664893099737090

シャチの学名 Orcinus orca は「冥界の魔物」ではない

はじめまして、ぽわせみです。学名についての話をしようと思います。

 

シャチが細分化されうるという論文(Morin et al., 2024. R. Soc. Open Sci.)がバズっていますね。シャチの属する Orcinus 属はこれまで、シャチ O. orca 1種のみの単型属であるとされてきました。しかし近年、南極海のものは複数の遺伝的に分化したエコタイプに分けられ、複数種を認めるべきであると指摘されていました。この論文では、北太平洋に知られる2つのエコタイプに関しても、形態学的や遺伝学的にも別種とみなすことができるというものです。

 

さて、この Orcinus orca *1という学名は「冥界の魔物」*2という意味であるという言説が広く知られ、雑学として面白おかしく流布されてきました*3*4*5*6*7。かくいう私も、大学の講義で生物学科の先生にそう教わりました。しかし、この学名をラテン語として解釈すると、これは疑わしいです。ずっともやもやしてきたのですが、ここにまとめてみます。

学名の基礎知識

まず、学名の表記法について簡単に見ていきましょう。

動物の学名は国際動物命名規約にて取り扱われます。これは学名におけるルールを定めたもので、いわば法律であり、学名はこれに従って名付けられ、運用されます。現行の規約は2000年に出版された動物命名法国際審議会 (2000)『国際動物命名規約 第4版 the International Code of Zoological Nomenclature』です*8。長いので本稿ではこれを ICZN と表記することとします*9

 

ICZN において、種の学名(種名)はリンネが行った二名法を踏襲して「属名 + 種小名」で表現されます(ICZN 条11.4)。これを二語名といいます。これは高校でも習いますね。そして普通その直後にその学名を命名した「著者」とその公表した年である「日付」を併記します。

 

Orcinus orca の記載

次に、これを踏まえてシャチの学名 Orcinus orca がどうしてできあがったのかを見ていきましょう。これは比較的単純です。

 

Orcinus orca (Linnaeus, 1758)

Orcinus が属名、orca が種小名、合わせて種名です。この後ろの (Linnaeus, 1758) が著者と日付で、丸括弧に入れられているのは後に属が移動され、現在の学名になったことを示しています*10。Linnaeus (カール・フォン・リンネ)が1758年『自然の体系 Systema Narurae』 第10版 にて Delphinus orca Linnaeus, 1758 として記載したのちに、別の著者により Orcinus 属に移されたというわけです。

 

Orcinus 属を設立し、Orcinus orca としたのはレオポルト・フィッツィンガーです。1960年の著作中でこの学名を公表しました*11。これにより、Delphinus orcaOrcinus Fitzinger, 1860 という属に移され、Orcinus orca (Linnaeus, 1758) Fitzinger, 1860 になりました。これが現在でも用いられる Orcinus orca (Linnaeus, 1758) というシャチの学名の由来です。

 

学名とラテン語

学名はラテン文字(アルファベット)で書かれれば由来は何語でも良く、文字の任意組合せでもよいとされています(ICZN 条11.3)。ただし、通俗語*12をそのまま使うべきではなく、適切なラテン語化が推奨されています(ICZN 勧告11A)。そのため、ラテン語とみなせる学名はラテン語として解釈するべきであり、実際それに則って運用されています。

 

ここで、文法のお話を少々。ラテン語の名詞や形容詞には、(英語における主格・所有格・目的格…といった)格 case が(普通)6つあります:主格・呼格・属格・対格・与格・奪格。このうち主に学名に関係するのは主格と属格の2つです。主格の名詞が主語になり、属格名詞がそれを修飾すると捉えてもらえればよいでしょう。形容詞は修飾したい名詞に格・性を揃えることで、名詞を修飾することができます。また、ラテン語の形容詞はそのままで名詞としても機能して*13「○○のもの」という意味を表すことができ、属名にも種小名にも用いることができます*14

 

二語名をラテン語として解釈した場合、属名は名詞(単数主格;ICZN 条11.8)、種小名はそれを修飾する形容語です(ICZN 条11.9.1)。つまり、後置修飾して「(種小名)の(属名)」のような和訳ができるわけです。また、種小名を示す形容語は、文法的にいくつかに解釈されます。規約中では、種小名は次のうちのいずれかに該当します。

  1. 主格単数形の形容詞または分詞*15
  2. 属名と同格の主格単数形の名詞
  3. 属格の名詞*16
  4. 共生する宿主の種小名に由来する場合、属格の実名詞として使用される形容詞

 

Orcinus orca の意味

それでは、これまでの基礎知識を踏まえてこの学名の意味を紐解いていきましょう。

 

まず、リンネの Delphinus orca  は、ラテン語では「orca というイルカの仲間」と解釈できます。属名の Delphinus古代ギリシア語 δελφίν に由来する、イルカを表すラテン語男性名詞 delphinus で*17*18、種小名の orcaラテン語女性名詞 orca です*19。種小名も属名も単数主格の名詞ですが、現行の ICZN では上記の「2. 属名と同格の主格単数形の名詞」に当たります。同格なので上では「~の」ではなく「~という」と訳しました。

 

ラテン語 orca はややややこしい出自の語で、古代ギリシア語の ὕρχη(húrkhē、魚を漬ける土瓶)から借用されたか、あるいは地中海の基層言語から古代ギリシア語とは独立してラテン語に借用されたと考えられており、「胴が膨らんだ壺」と「クジラの一種」の2義を持ちます*20。ICZN(条30.1.1 例)では前者が引用されていますが、語義を考えると後者と考えた方が自然でしょう。なお、後者の語義は ὄρυξ(órux、鶴嘴;オリックス;イッカク)の影響を受けているともされています*21

 

Wiktionay 英語版 "Orcinus" によると Orcinus の語源は以下の通りです*22

Latin Orcinus (“of the realms of the dead”), from Orcus + -inus

つまり、Orcinus を Orcus(冥界)に接尾辞 -inus をつけたものと解釈しています。-inus は名詞に接続して形容詞化し、「~の」「~に関する」「~に類似する」などの意味を付する接尾辞です*23*24。実際この Orcinus の用例は存在し*25、日本語における「冥界の」の訳はこれによるものであると考えられます。

 

しかし、ICZN(条30.1.1 例)では、Orcinus は女性名詞 orca に男性接尾辞 -inus を付加して作ったものとされています。そのため、属名 Orcinus は、上記の意味の Orcinus ではなく、フィッツィンガーによりつくられた新しい複合語 orcinus と考えるべきです。さらに属名は単数主格名詞として扱う(ICZN 条11.8)ことからも、Orcinus は形容詞としてではなく、 orca から派生し、delphinus に準じて形成された「orca(クジラの一種)の仲間*26という意味の男性名詞として訳すべきでしょう。

 

なお、Orcus はもとはローマ神話における神オルクスを表し、そこから「冥界」や「死後の世界」の意味に転じた語です。「冥界の魔物」という訳は、形容語である orca を Orcus から派生したと(誤って)解釈した「魔物」という名詞として捉え*27、属名 Orcinus を形容語として扱っていると考えられます。しかし、口酸っぱく言っている通り、誰が何と言おうと属名は単数主格名詞として扱うものですから、これは明らかに誤りです。

 

以上から、Orcinus orca は「orca というクジラの仲間」と訳すべきです*28

 

まとめ

  • orca は「魔物」ではなく「クジラの一種」を示すラテン語
  • Orcinus は 「Orcus(冥界)+ -inus」(冥界の)ではなく「orca + -inus」(orca の仲間)
  • Orcinus orca は「orca というクジラの仲間」の意

 

*1:ラテン語読みすると、オルキーヌス・オルカ

*2:冥界は冥府、魔物は悪魔という表現もあり、「冥界からの魔物」「冥界よりの魔物」のような様々なバリエーションが見られる。

*3:佐藤孝則 (2016). 「「元初まりの話」に登場する動物たち(10) 「しゃち」と「しゃちほこ」について ①」『グローカル天理』17(2): 5

*4:What's ORCA?

*5:シャチの学名Orcinus orca(オルキヌス・オルカ)は「冥界からの魔物」という意味である | 動物おもしろ雑学集

*6:海&海洋生物トリビアbot - Twitter

*7:「シャチ」の英語名は2つあった!驚きの由来も!イルカやクジラも紹介| Kimini英会話

*8:国際動物命名規約 第4版 日本語版 [追補]: 「正文」である日本語版の追補が2005年に発行され、ウェブ上で公開されています。

*9:この規約は一般的に ICZN と略されるのですが、規約中では ICZN は動物命名法国際審議会(International Commission on Zoological Nomenclature)の略とされ、規約自体は「規約 Code」と表記されます(ICZN 用語集 "規約 Code")。

*10:よく勘違いされますが、何でもかんでも括弧に包んでもいいというわけではありません

*11:Fitzinger, L. J. (1860) "Wissenschaftlich-populäre Naturgeschichte der Säugethiere in ihren sämmtlichen Hauptformen: nebst einer Einleitung in die Naturgeschichte uberhaupt und in die Lehre von den Thieren insbesondere". Wien: Aus der Kaiserlich-königlichen hof- und staatsdrucherei. 6: 204

*12:和名や英名などのこと

*13:田中利光ラテン語初歩 改訂版』岩波書店、2002年3月20日。15頁。

*14:平嶋義宏『生物学名命名法辞典』平凡社、1994年11月1日。78頁。

*15:動詞を活用させ、形容詞として扱うもの

*16:名詞に2.の主格を用いるか、3.の属格を用いるかはその名詞の性質によります。

*17:Lewis, C.T.; Short, C. (1879). "delphīnus". A Latin Dictionary.

*18:delphinus - Wiktionary, the free dictionary

*19:ICZN 条30.1.1 例

*20:Gaffiot, F. (1934). "orca". Dictionnaire illustré latin-français, Hachette

*21:orca - Wiktionary, the free dictionary

*22:Orcinus - Wiktionary, the free dictionary

*23:-inus - Wiktionary, the free dictionary

*24:平嶋義宏『生物学名命名法辞典』平凡社、1994年11月1日。98頁。

*25:Lewis, C.T.; Short, C. (1879). "Orcīnus , a, um, adj. id.". A Latin Dictionary.

*26:形容詞「orca に類似した」→名詞「orca に類するもの = orca の仲間」

*27:英語の orc はラテン語 orca から中世フランス語 orque を経由してできたシャチという語義と、ラテン語 Orcus に由来し、オーガ ogre と二重語であるオークという語義を持ちます。この「魔物」は後者からの誤った推測の可能性が高いです。

*28:厳密に直訳すると「orca という orca に類するもの」ですが、これでは意味が通らないのでやや日本語に合わせ意訳しています。ラテン語orca は別にシャチではないのでここでは orca としていますが、学名としては「シャチというシャチの仲間」と表現しても差し支えないと思います。