はじめまして、ぽわせみです。学名についての話をしようと思います。
シャチが細分化されうるという論文(Morin et al., 2024. R. Soc. Open Sci.)がバズっていますね。シャチの属する Orcinus 属はこれまで、シャチ O. orca 1種のみの単型属であるとされてきました。しかし近年、南極海のものは複数の遺伝的に分化したエコタイプに分けられ、複数種を認めるべきであると指摘されていました。この論文では、北太平洋に知られる2つのエコタイプに関しても、形態学的や遺伝学的にも別種とみなすことができるというものです。
さて、この Orcinus orca *1という学名は「冥界の魔物」*2という意味であるという言説が広く知られ、雑学として面白おかしく流布されてきました*3*4*5*6*7。かくいう私も、大学の講義で生物学科の先生にそう教わりました。しかし、この学名をラテン語として解釈すると、これは疑わしいです。ずっともやもやしてきたのですが、ここにまとめてみます。
学名の基礎知識
まず、学名の表記法について簡単に見ていきましょう。
動物の学名は国際動物命名規約にて取り扱われます。これは学名におけるルールを定めたもので、いわば法律であり、学名はこれに従って名付けられ、運用されます。現行の規約は2000年に出版された動物命名法国際審議会 (2000)『国際動物命名規約 第4版 the International Code of Zoological Nomenclature』です*8。長いので本稿ではこれを ICZN と表記することとします*9。
ICZN において、種の学名(種名)はリンネが行った二名法を踏襲して「属名 + 種小名」で表現されます(ICZN 条11.4)。これを二語名といいます。これは高校でも習いますね。そして普通その直後にその学名を命名した「著者」とその公表した年である「日付」を併記します。
Orcinus orca の記載
次に、これを踏まえてシャチの学名 Orcinus orca がどうしてできあがったのかを見ていきましょう。これは比較的単純です。
Orcinus orca (Linnaeus, 1758)
Orcinus が属名、orca が種小名、合わせて種名です。この後ろの (Linnaeus, 1758) が著者と日付で、丸括弧に入れられているのは後に属が移動され、現在の学名になったことを示しています*10。Linnaeus (カール・フォン・リンネ)が1758年『自然の体系 Systema Narurae』 第10版 にて Delphinus orca Linnaeus, 1758 として記載したのちに、別の著者により Orcinus 属に移されたというわけです。
Orcinus 属を設立し、Orcinus orca としたのはレオポルト・フィッツィンガーです。1960年の著作中でこの学名を公表しました*11。これにより、Delphinus orca は Orcinus Fitzinger, 1860 という属に移され、Orcinus orca (Linnaeus, 1758) Fitzinger, 1860 になりました。これが現在でも用いられる Orcinus orca (Linnaeus, 1758) というシャチの学名の由来です。
学名とラテン語
学名はラテン文字(アルファベット)で書かれれば由来は何語でも良く、文字の任意組合せでもよいとされています(ICZN 条11.3)。ただし、通俗語*12をそのまま使うべきではなく、適切なラテン語化が推奨されています(ICZN 勧告11A)。そのため、ラテン語とみなせる学名はラテン語として解釈するべきであり、実際それに則って運用されています。
ここで、文法のお話を少々。ラテン語の名詞や形容詞には、(英語における主格・所有格・目的格…といった)格 case が(普通)6つあります:主格・呼格・属格・対格・与格・奪格。このうち主に学名に関係するのは主格と属格の2つです。主格の名詞が主語になり、属格名詞がそれを修飾すると捉えてもらえればよいでしょう。形容詞は修飾したい名詞に格・性を揃えることで、名詞を修飾することができます。また、ラテン語の形容詞はそのままで名詞としても機能して*13「○○のもの」という意味を表すことができ、属名にも種小名にも用いることができます*14。
二語名をラテン語として解釈した場合、属名は名詞(単数主格;ICZN 条11.8)、種小名はそれを修飾する形容語です(ICZN 条11.9.1)。つまり、後置修飾して「(種小名)の(属名)」のような和訳ができるわけです。また、種小名を示す形容語は、文法的にいくつかに解釈されます。規約中では、種小名は次のうちのいずれかに該当します。
Orcinus orca の意味
それでは、これまでの基礎知識を踏まえてこの学名の意味を紐解いていきましょう。
まず、リンネの Delphinus orca は、ラテン語では「orca というイルカの仲間」と解釈できます。属名の Delphinus は古代ギリシア語 δελφίν に由来する、イルカを表すラテン語男性名詞 delphinus で*17*18、種小名の orca はラテン語女性名詞 orca です*19。種小名も属名も単数主格の名詞ですが、現行の ICZN では上記の「2. 属名と同格の主格単数形の名詞」に当たります。同格なので上では「~の」ではなく「~という」と訳しました。
ラテン語 orca はややややこしい出自の語で、古代ギリシア語の ὕρχη(húrkhē、魚を漬ける土瓶)から借用されたか、あるいは地中海の基層言語から古代ギリシア語とは独立してラテン語に借用されたと考えられており、「胴が膨らんだ壺」と「クジラの一種」の2義を持ちます*20。ICZN(条30.1.1 例)では前者が引用されていますが、語義を考えると後者と考えた方が自然でしょう。なお、後者の語義は ὄρυξ(órux、鶴嘴;オリックス;イッカク)の影響を受けているともされています*21。
Wiktionay 英語版 "Orcinus" によると Orcinus の語源は以下の通りです*22。
Latin Orcinus (“of the realms of the dead”), from Orcus + -inus
つまり、Orcinus を Orcus(冥界)に接尾辞 -inus をつけたものと解釈しています。-inus は名詞に接続して形容詞化し、「~の」「~に関する」「~に類似する」などの意味を付する接尾辞です*23*24。実際この Orcinus の用例は存在し*25、日本語における「冥界の」の訳はこれによるものであると考えられます。
しかし、ICZN(条30.1.1 例)では、Orcinus は女性名詞 orca に男性接尾辞 -inus を付加して作ったものとされています。そのため、属名 Orcinus は、上記の意味の Orcinus ではなく、フィッツィンガーによりつくられた新しい複合語 orcinus と考えるべきです。さらに属名は単数主格名詞として扱う(ICZN 条11.8)ことからも、Orcinus は形容詞としてではなく、 orca から派生し、delphinus に準じて形成された「orca(クジラの一種)の仲間」*26という意味の男性名詞として訳すべきでしょう。
なお、Orcus はもとはローマ神話における神オルクスを表し、そこから「冥界」や「死後の世界」の意味に転じた語です。「冥界の魔物」という訳は、形容語である orca を Orcus から派生したと(誤って)解釈した「魔物」という名詞として捉え*27、属名 Orcinus を形容語として扱っていると考えられます。しかし、口酸っぱく言っている通り、誰が何と言おうと属名は単数主格名詞として扱うものですから、これは明らかに誤りです。
以上から、Orcinus orca は「orca というクジラの仲間」と訳すべきです*28。
まとめ
- orca は「魔物」ではなく「クジラの一種」を示すラテン語
- Orcinus は 「Orcus(冥界)+ -inus」(冥界の)ではなく「orca + -inus」(orca の仲間)
- Orcinus orca は「orca というクジラの仲間」の意
*2:冥界は冥府、魔物は悪魔という表現もあり、「冥界からの魔物」「冥界よりの魔物」のような様々なバリエーションが見られる。
*3:佐藤孝則 (2016). 「「元初まりの話」に登場する動物たち(10) 「しゃち」と「しゃちほこ」について ①」『グローカル天理』17(2): 5
*5:シャチの学名Orcinus orca(オルキヌス・オルカ)は「冥界からの魔物」という意味である | 動物おもしろ雑学集
*7:「シャチ」の英語名は2つあった!驚きの由来も!イルカやクジラも紹介| Kimini英会話
*8:国際動物命名規約 第4版 日本語版 [追補]: 「正文」である日本語版の追補が2005年に発行され、ウェブ上で公開されています。
*9:この規約は一般的に ICZN と略されるのですが、規約中では ICZN は動物命名法国際審議会(International Commission on Zoological Nomenclature)の略とされ、規約自体は「規約 Code」と表記されます(ICZN 用語集 "規約 Code")。
*10:よく勘違いされますが、何でもかんでも括弧に包んでもいいというわけではありません
*11:Fitzinger, L. J. (1860) "Wissenschaftlich-populäre Naturgeschichte der Säugethiere in ihren sämmtlichen Hauptformen: nebst einer Einleitung in die Naturgeschichte uberhaupt und in die Lehre von den Thieren insbesondere". Wien: Aus der Kaiserlich-königlichen hof- und staatsdrucherei. 6: 204
*12:和名や英名などのこと
*13:田中利光『ラテン語初歩 改訂版』岩波書店、2002年3月20日。15頁。
*14:平嶋義宏『生物学名命名法辞典』平凡社、1994年11月1日。78頁。
*15:動詞を活用させ、形容詞として扱うもの
*16:名詞に2.の主格を用いるか、3.の属格を用いるかはその名詞の性質によります。
*17:Lewis, C.T.; Short, C. (1879). "delphīnus". A Latin Dictionary.
*18:delphinus - Wiktionary, the free dictionary
*19:ICZN 条30.1.1 例
*20:Gaffiot, F. (1934). "orca". Dictionnaire illustré latin-français, Hachette
*21:orca - Wiktionary, the free dictionary
*22:Orcinus - Wiktionary, the free dictionary
*23:-inus - Wiktionary, the free dictionary
*24:平嶋義宏『生物学名命名法辞典』平凡社、1994年11月1日。98頁。
*25:Lewis, C.T.; Short, C. (1879). "Orcīnus , a, um, adj. id.". A Latin Dictionary.
*26:形容詞「orca に類似した」→名詞「orca に類するもの = orca の仲間」
*27:英語の orc はラテン語 orca から中世フランス語 orque を経由してできたシャチという語義と、ラテン語 Orcus に由来し、オーガ ogre と二重語であるオークという語義を持ちます。この「魔物」は後者からの誤った推測の可能性が高いです。
*28:厳密に直訳すると「orca という orca に類するもの」ですが、これでは意味が通らないのでやや日本語に合わせ意訳しています。ラテン語の orca は別にシャチではないのでここでは orca としていますが、学名としては「シャチというシャチの仲間」と表現しても差し支えないと思います。